映画祭「映画と天皇」で「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」を観た

本当は前回ブログに書いた「新しい神様」の前にこの映画を観て、個人的に三島由紀夫の事をほとんど知らなかったものだから、とても参考になったとブログに書こうと思っていたところ、次の作品の印象が強すぎて後回しになったのでした。

 

 

上映前の学生の挨拶では三島由紀夫自衛隊体験入隊の時に「自分の事は本名の○○と呼んでください」という言葉に覚悟を感じた、なんて言っていたのだけど、はっきり言ってこのシーンは流して良いシーンだと思った。

 

別に学生に何か期待して行ったわけではないのだが。

 

私が一番印象に残ったのは「これは絶望からの出発なんだ!一般大衆の支持を期待しているようじゃ駄目なんだ!」という言葉で、この言葉にすべてが表れていたように思う。

 

三島由紀夫の(当時の)現代日本、日本人への失望、諦めと、それでも信念に従って行動を起こさなければならないという強い意志が感じられたシーンではなかったかと思う。

 

 

しかしながら映画としての出来はどうだったんだろうか。

 

ドキュメンタリーではないこういった史実を元にした映画というものに対して、私は非常に警戒心を抱いてしまう。

 

例えばコンピューターの父アラン・チューリングを描いた「イミテーション・ゲーム」はinformation is beautifulの検証によればシーンの64.3%は事実と異なるとのこと。

 

ドキュメンタリーでさえ、映像は本物であっても取捨選択・構成・強調などによって監督の主張が表現されるものなのに、映像を含めて再構築されたこの作品が、いったいどれだけ事実を伝えているのか、それを考えながら解釈しなければならないのであれば、いっそ事実のみを知りたいと思うのです。

 

 

劇中では三島由紀夫が終始豪華な邸宅、お金のある身なりをしているところと、キーとなるシーンで三島由紀夫が話しているところに何の意味があるのかわからないピアノのBGMが乗っているのが非常に気になった。

 

終了後の企画協力者の政治活動家鈴木邦男氏の解説で監督がポルノ映画出身と聞いて改めて考えれば、臨場感の無い構図にメリハリのないカットなど、言ってみればテレビの再現VTRのような調子で、差別的感情から言うわけではないのだが、出自からの限界というものを感じる出来ではあったと思う。

 

 

さておき当時のベトナム戦争反戦運動であったり安保闘争の動きの中で、いかに世の中に自分の主張を浸透させる手段を確保するかというところに視点を置いているところに政治運動らしさを感じられ、そういった内側のやり取りが垣間見えた点など、色々と参考になった作品であった。

 

大騒ぎして自分の事を目立たせるという意味では、炎上商法といった形で今でインターネット社会に残っているし、例えば過労死した電通社員などは世の中を変える働きをしたという意味では似たところがあるのかもしれない。

 

しかしまあ、今の日本人は軟弱になっただとか熱意がないだとか、比較したらそれは間違っていないのかもしれないけれど、その力も個人が持っていたというよりはその時代が持っていた熱に従って現れたものだと思うので、どちらが良いとも正しいとも言えないのではないかと思います。